次回の国際日本文化研究センター共同研究会(鈴木貞美班)は、以下の予定で行われるそうです。
日時:3月20日(土)~3月21 日(日)
場所:国際日本文化研究センター(京都)
発表題目
20日
14:00~16:00 劉建輝「モリソン辞典をめぐって」
16:00~18:00 鈴木貞美「『民謡』概念をめぐって」
21 日
10:30~12:30 衣笠正晃「国文学研究と教員検定 ―大正中期以降の『文検』国語科をめぐって」
これは預言である。
昨日(2010/2/17)に行われたOCG2010(オンラインゲーム&コミュニティサービスカンファレンス2010)に参加してきたわけだが、午前のセッションでの三つの発表が、それを象徴していたのである。
ひとつ目は、mixiの笠原氏による「mixiのオープン化戦略」、二つ目は長瀬慶重氏「ブログ、ピグ、なう。」、三つ目に守安功氏「モバゲータウンのオープン化について」。
さて、この三社による発表は「オープン化」「ソーシャルゲーム」を基軸に行われたわけであるが、わたくしは彼らの発表を聞きながら、猛烈にこう思ったのである。
「つまり、「僕の王国へようこそ」ということですね」
mixiアプリにおける「オープン化」は、アプリの場に他社が参入するものであって、そこにおけるmixiの上位性は一切揺らがない。mixiアプリを提供する側は、あくまでもmixiの傘下に組み込まれる形でしか参入することができないのだ。その発想は、これから所謂「オープン化」を進めようとしているモバゲーも変わらない。
もちろん、そこは商売だから仕方ない部分もあるのである。
だがしかし、このモデルは、自壊する。とわたくしは預言する。
なぜなら、あくまでもmixiやモバゲーという「領土」に固執している限り、そこで最終的に起こるのは、ユーザの取り合い、狭い領土内における「国盗り合戦」だからである。
その意味で、ここにおける「オープン化」は、言葉に反して、猛烈に「クローズド」なものだ。
これは、午後の佐々木氏のtwitterのスタンスと、皮肉なまでの対照を示していたのである。もちろん、そこには、twitterにおける収益モデルが、前者たちのモデルと全く違うという決定的な「強み」を持っているという「余裕」に基づくものにほかならないことは言うまでもない。そうであるがゆえに、twitterに席巻される「オープン」な未来を無条件に肯定することも素直にはできない。
こうした状況は、ネットワークにおける「文化的」な「グローバリゼーション」という観点で論ずることも可能かも知れない。
以下の予定で日本近代文学会北海道支部例会が開催されます。
私は行けませんが。。
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日本近代文学会北海道支部例会
日時:2010年3月13日(土)午後2時~
場所:北海道大学 人文・社会科学総合教育研究棟(w棟)5階 w517講義室
〈研究発表〉
1、内田百閒「山高帽子」論
北海道大学大学院生 山田桃子氏
(午後2:00~3:20予定)
2、 1970年代ホームドラマ論―『寺内貫太郎一家』『岸辺のアルバム』を中心に―
北海道大学大学院生 江崎比呂子氏
(午後3:40~5:00予定)
さて、今日の夜行バスで東京へ。
「21世紀の科学技術リテラシー」シンポへ参加します。
先日の北大CoSTEPシンポ「日本の"科学技術コミュニケーション"のこれから」でもtwitterの有効活用がなされていましたが、今回のこのシンポでもtwitterによるハッシュタグを活用するとのこと。
こうした試みは、まずこうした学会でデフォルトになり、その他の学会へと波及していくのでしょうね。
だがしかし、おそらく文学系の学会にこれが浸透するのは、半世紀後になるのであらう。合掌。
去る2010/1/30日、金沢にいらっしゃった中嶋康博氏と初めてお会いしてお話ししました。
中嶋氏は四季派を中心とした詩集の膨大なコレクションを所蔵するコレクター。
ネット上ではずいぶん前からおつきあいがあったのですが、お会いするのは初めてでした。しかし、初めてとは思えないほど話がはずむはずむ。
氏の守備範囲と私の守備範囲は、奇妙に相補的にずれているのも確認しつつ(なので、意外と自分が周知と思っていることが、相手は知らなかったり...(苦笑)、しかしながら基底にある問題意識を元に話が広がりました。
わざわざ金沢まで貴重な氏のコレクションを持って来て頂きました。中原中也や立原道造の直筆献呈本やら、ええええええ、というものがわんさかと。
非常に有意義なお話ができましたのです。
ゆらゆらゆらゆら揺れていたかった石狩へのセンチメンタルジャーニーですが、苛烈な取り立てにより、揺れたくない方向にも揺れざるを得ない状況です。
今の世の中、ノートPCとネット接続環境があれば、実質仕事ができてしまいますしね。。
ケータイを捨てて街へ出よう。そうだ、そうだ、そうしよう。
なにものにも接続されずに旅をすることへののすたるじー。しかし、既にGoogleマップがなければどこにも行けない自分を発見し、深く刻み込まれた通信の呪縛を再発見するはめになるのであった。合掌。
といっても仕事ではありません。
なまけるためにいくのです。
ひたすら石狩海岸でゆらゆらゆらゆらしてきます。
かくしてその2がやってきた。
その3に続くかも知れないし、続かないかも知れない。
今回はAlwyn Spies氏「Ninja, Cowboy, Bear: Approaching "Japanese Video Game Studies" through Film」の報告。
ゲーム研究も近年盛んに行われ始めているが、私の関心に引きつけてこの発表を聞くならば、ゲーム研究が、「ナラトロジー」/「映像論」/「ゲーム論者」の闘争の場となっている、という指摘が示唆的であった。
「ゲームを、いかに研究するか」、さまざまな方法論があろうが、マンガ研究の黎明期と場合と同じような"植民地争奪戦"が起こっていると見ることもできよう。
「物語」として「ゲーム」を読み解く立場。「ゲーム」における「映像」を読み解いていく立場。それらに対して、「ゲームのゲームたる独自の構造」を明らかにしようとする立場。
本シンポジウムでも、アニメやゲームを扱う発表が数件あったが、どれも、「前提を共有していない人にいかに語りかけるか」に多く時間をとられている印象があったため、もう一歩突っ込みきれていない感を抱いた。そこはまあ、場所が場所だけに仕方ないのだろうが。
その3に続くかどうかは、またまたわからないのである。
第4回 日本アニメ文化研究会@金沢大学は無事終わりました。
「電脳コイル」から出発し、ヴァーチャルとリアルの多重化という観点を元に、「ヘタリア」を独自に解釈していく『腐女子』の心性を明らかにしていく試みだったかと思います。
第5回は1月中旬に開催される予定です。
竹本寛秋「「ぷりずむ」としての「山村暮鳥」」を、暮鳥会会報『風景』第2期5号(通巻16号)に掲載させていただきました。
山村暮鳥研究をめぐる問題点を指摘したつもりです。
もし会員でないかたで、お読みになりたい方がいらっしゃいましたら、お知らせください。
その2があるかどうかは謎である。
さて、ものすごく実り多いシンポジウムだったのである。これだけのシンポジウムを開催できるというのはまさにデスメタルである。一秒間にどれだけ音を詰め込めるかというくらいの密度なのである。
セッション7のテーマは「ヴィジュアル・イメージと社会―親密圏と公共圏の再編成にむけて―」
丹羽美之氏の発表は「記録映画の保存と活用―記録映画アーカイブ・プロジェクトの事例から―」
さて、ただでさえ映画はアーカイブとして残らないものであるのだが、そのなかでも、商業ベースではない所謂「記録映画」をアーカイブし活用できる形にしていく作業の必要性は、研究の基盤として強調しすぎてもしすぎることはない。
このセッションで特に印象に残ったのは、松本篤氏による「映像コミュニケーションにおける"ローカル"の価値 ―ビジュアルアーカイブプロジェクトAHA!の事例報告―」だ。
松本氏は個人の"タンスの奥"に死蔵されているプライベート・フィルム―それこそ個人的結婚式の記録といったもの―を収集しているわけだが、注目すべきはそれを収集するというところだけにはない。
収集の過程において、そのフィルムの所有者とともに上演会を行い、上演によって呼び起こされる当事者の「記憶」を問題化していくのだ。さらには、「公開上演会」―そのフィルムと全く関係のない人々も含めた上演―を行うことで、氏の言う「誤読」の可能性を追求する。ここでいう「誤読」とは、私の理解では、他人によって刻まれた「痕跡」としてのフィルムから、見る者自身「記憶」を引き出していく作業だ。そこにおいて、多様な人々の「記憶」が交錯する。これは研究であるとともに、非常にアクチュアルな実践だ。
これは、ぜひ行くべきシンポでしたよ。
その2、に続くかもしれないし、続かないかもしれない。